松浦エリア
上人様(じょうにんさま)
この地方を大干ばつが襲ったとき、村人たちは餓死寸前まで追い込まれました。その様子を見た通りがかりの上人様が、自分を犠牲にして生き埋めとなり、土中で読経を続け、その声が途絶えるとともに、大粒の雨が降ったということです。
この地方を大干ばつが襲ったとき、村人たちは餓死寸前まで追い込まれました。その様子を見た通りがかりの上人様が、自分を犠牲にして生き埋めとなり、土中で読経を続け、その声が途絶えるとともに、大粒の雨が降ったということです。
白浜源介(助)の墓
源介は直谷城主志佐純正の家老で、直谷城が永禄7年(1564)に平戸から攻められた際に、幼い城主の子を背負い、相神浦(あいのこうら)〈佐世保相浦〉に落ち延びました。その後、平戸城主の娘婿であった直谷城主の弟・純意(すみもと)を志佐城主にするため、平戸方のいいなりになる、純意の名で白浜館は攻められ、天正13年(1585)、源介は上意討となりました。
源介は直谷城主志佐純正の家老で、直谷城が永禄7年(1564)に平戸から攻められた際に、幼い城主の子を背負い、相神浦(あいのこうら)〈佐世保相浦〉に落ち延びました。その後、平戸城主の娘婿であった直谷城主の弟・純意(すみもと)を志佐城主にするため、平戸方のいいなりになる、純意の名で白浜館は攻められ、天正13年(1585)、源介は上意討となりました。
護舜寺
秀吉の朝鮮出兵の際に、平戸松浦26代鎮信(しげのぶ)公に従って朝鮮に渡った正守(しょうしゅ)大和尚は、帰国後も敵味方の区別なく戦死者の冥福を祈りました。その志に感銘を受けた鎮信公の遺命により、元和(げんな)3年(1617)に護舜寺が建立されました。
秀吉の朝鮮出兵の際に、平戸松浦26代鎮信(しげのぶ)公に従って朝鮮に渡った正守(しょうしゅ)大和尚は、帰国後も敵味方の区別なく戦死者の冥福を祈りました。その志に感銘を受けた鎮信公の遺命により、元和(げんな)3年(1617)に護舜寺が建立されました。
松山田の六地蔵塔
塔身に3段の尊像が各段11仏、合わせて33仏刻まれています。中断には、卍を胸につけた珍しい尊像があります。造られた年代は不明ですが、天正年間(1573~1591)のものと考えられます。
塔身に3段の尊像が各段11仏、合わせて33仏刻まれています。中断には、卍を胸につけた珍しい尊像があります。造られた年代は不明ですが、天正年間(1573~1591)のものと考えられます。
今福神社(歳の宮)
応徳(おうとく)元年(1084)、松浦党党祖・久(ひさし)公が、ぎぎが浜上陸後、滋賀県多賀(たが)の大明神の分霊を勧請(かんしょう)し、この神社に置いて年を越したことから(歳の宮)とも呼ばれます。その折、村人が梶の葉の上に3個の餅を乗せて久公に捧げたことから、松浦家は梶の葉の家紋を使用するようになったと伝わっています。
応徳(おうとく)元年(1084)、松浦党党祖・久(ひさし)公が、ぎぎが浜上陸後、滋賀県多賀(たが)の大明神の分霊を勧請(かんしょう)し、この神社に置いて年を越したことから(歳の宮)とも呼ばれます。その折、村人が梶の葉の上に3個の餅を乗せて久公に捧げたことから、松浦家は梶の葉の家紋を使用するようになったと伝わっています。
円成寺墓地の六地蔵塔
この墓地内には3基の六地蔵塔があり、手前の塔は天正期(16世紀後半)の型をしています。後ろの左側の塔の傘は非常に珍しい網代型(あじろがた)をしており、いずれも貴重なものといえます。
この墓地内には3基の六地蔵塔があり、手前の塔は天正期(16世紀後半)の型をしています。後ろの左側の塔の傘は非常に珍しい網代型(あじろがた)をしており、いずれも貴重なものといえます。
山崎の大蛇退治の伝説
娘を大蛇に呑まれた両親が池の端を切って水を川に流すと、大蛇が現れて風雨が激しくなったため、殿様に大蛇退治を頼みました。命じられた池筑後(いけちくご)は家来とともに大蛇を退治しました。
娘を大蛇に呑まれた両親が池の端を切って水を川に流すと、大蛇が現れて風雨が激しくなったため、殿様に大蛇退治を頼みました。命じられた池筑後(いけちくご)は家来とともに大蛇を退治しました。