宮地嶽史跡公園(みやじだけしせきこうえん)
鷹島の北部、標高116mに位置する島内でももっとも眺めのよいところにある公園。
晴れた日には、佐賀県の東松浦半島から向島、馬渡島、加唐島、また壱岐島や的山大島、生月島、平戸島などを望むことができます。公園内には宮地嶽神社、愛宕神社が祀られており、元寇記念之碑、五輪塔が建てられています。元寇記念之碑は、大正4年に当時の村青年会が中心となって建立したもので、阿翁免の猿田彦神社から昭和51年に現在地に移転しました。毎年8月30日に、宮地嶽史跡公園で鷹島町青年団主催の「元寇記念祭」が行われています。
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龍面庵少弐公園(りゅうめんあんしょうにこうえん)
阿翁浦を望む高台にあります。
弘安の役(1281年)の際、少弐景資(しょうにかげすけ)が本陣を置いた陣屋跡と伝えられています。
少弐景資は、鎮西奉行少弐経資(しょうにつねすけ)の弟で、文永の役では、日本の総大将として戦功を上げました。弘安の役では、閏7月1日の暴風雨により元の船団のほとんどが沈没し、残兵5千人が鷹島に上陸したとの急報に博多から駆けつけ、約1週間にわたる掃討戦の末、元軍を殲滅させたといわれています。境内には、この戦いで戦死した壱岐の石田五郎為治、西牟田弥五郎の墓や供養塔が祀られています。
龍面庵の堂内に安置されていた木彫りの釈迦像は、江戸時代に畑の開墾中発見されたもので、元将の守護仏ではないかといわれています。現在は鷹島歴史民俗資料館で展示公開しています。
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対馬小太郎の墓(つしまこたろうのはか)
鷹島の西部、はるか対馬を望む小高い丘に対馬小太郎の墓があります。
小太郎は、対馬の守護代、宗助国の家臣です。文永の役のおり、対馬にまず攻め入った元軍1千人に対し宗助国は68歳の身ながら80余騎を率い奮闘したものの全員討死となりました。元軍は1週間にわたり虐殺、放火、掠奪、暴行などにおよび対馬島内を荒らしまわりました。宗助国は、死の間際に小太郎と兵衛次郎に大宰府へ蒙古襲来の報を知らせよと命じます。2人は玄海の荒波を越え博多に上陸し、その使命を果たしました。
2度目の襲来となった弘安の役で、元軍の鷹島上陸の報を受けた小太郎と兵衛次郎ははすぐさま鷹島へ駆けつけ、少弐景資の配下で元軍と戦いましたが小太郎は重傷を負い自刃します。遺言に「我が屍を埋るに対馬を望むべき丘陵に於いてせよ」と言い残したため、対馬を望むことのできるこの丘に墓を建てたと伝えられています。
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刀の元の六地蔵(とうのもとのろくじぞう)
対馬小太郎の墓から南へ約60mほどのところに六地蔵があります。
ここは、弘安の役で、元軍の捕虜を斬首した場所と伝えられ、六地蔵とともに五輪塔が祀られています。
この六地蔵には赤土が塗られています。子どもが病気になると平癒祈願に赤土を塗るというこの地に伝わる風習によるもので、今も一部の人たちによって受け継がれています。
兵衛次郎の墓(ひょうえじろうのはか)
対馬小太郎とともに文永の役で故郷・対馬から大宰府へ蒙古襲来の伝令の使命を果たした兵衛次郎は、弘安の役で鷹島で戦死しました。
兵衛次郎の墓のある神崎地区は、一夜にして沈んだ4400隻の元軍船の船体が見つかった海域を望む地にあり、伊野利の浜(祈りの浜)とかつては呼ばれていました。弘安の役の際、いち早く援軍が着船した地と伝えられています。高さ1mほどの自然石が兵衛次郎の墓と伝えられており、その周囲に五輪塔や供養塔が祀られています。
銅造如来坐像(どうづくりにょらいざぞう)
江戸時代末期、船唐津(ふなとうづ)の漁師が夢に「原(はる)の海岸にアオギタ(魚の群れで海の色が変わること)が生じる」さまを見て、翌朝網をおろしたところこの仏像がかかったといわれています。
この仏像はその後盗難に遭いますが、仏像が「原の釈迦は原に帰る」と叫んだため、盗人は恐れて仏像の頭や額に埋め込んであった水晶などを抜き取って逃げたという言い伝えもあります。
現在は、原免字沖ノ前の市杵島神社(いちきしまじんじゃ)内のお堂に祀られています。
元軍船に安置されていた高麗仏と考えられますが、対馬や壱岐に見られる高麗時代の仏像とは作風が少し異なり、日本にもたらされている銅造仏像のなかでも優品に数えられています。
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牧の岳史跡公園(まきのたけしせきこうえん)
鷹島で最も標高の高いところに位置する平原で、江戸時代は平戸牛の放牧地でした。
昭和45年に公園化され、元寇の由来を記した石碑と供養のための五輪塔が建っています。
開田の七人塚(ひらきだのしちにんづか)
文永の役の際、現在の船唐津港から上陸した元軍は、鷹島の島民を虐殺。生き残ったのはわずか2人といわれています。当時、船唐津から北へ入った開田に、山の中の一軒家に暮らす家族がおりましたが、飼っていたニワトリが鳴いたため元軍兵に見つかり、灰だめに隠れていた老婆1人を除く一家7人が殺されました。以来、開田ではニワトリを飼わないと伝えられています。この家があったといわれる場所に開田の七人塚の石碑が建てられています。
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今宮神社・広久山満福寺跡(いまみやじんじゃ・こうきゅうざんまんぷくじあと)
松浦家の始祖である第8代松浦久(まつうらひさし)こうは、1069年、今福に梶谷城を築城し、館を構えました。
後に、久公は鷹島町原免の日本山(ひもとやま)に出城を築き別邸を設けますが、三里地区の平坦な地形が耕作に向いていることからこの土地を将来の一族発展の根拠地にするべく、広久山満福寺を建てたといわれています。同寺は明治になって廃寺となり、現在は旧満福寺跡の石碑が建っています。弘安の役の際、鷹島を守るために戦った第14代松浦答(ことふ)公は、重傷を負いここで自刃しました。境内には答(ことふ)公の墓や五輪塔、宝篋印塔が無数にあります。今宮神社は、久公の嫡子、直(なおし)公が父のために境内に建てたものと伝えられています。境内には、樹齢400年以上といわれる公孫樹の木があり、幹が3本に分かれ乳柱が発達したひじょうに珍しいかたちをしています。この木は県指定文化財になっています。
中川激戦場・首除き(なかがわげきせんじょう・くびのき)
中川は、弘安の役の際、元軍兵の首を斬った刀の血を洗ったところといわれており、現在の三里免中川原から船唐津免の淵の内までの中川多々良の谷と呼ばれる谷川を指します。
中川から西に約50mほどのところで元軍兵を斬首し、切った首を積み重ねたところを「首除き」と呼んでいます。現在は石碑が建てられています。
激戦地の跡
- 棟原(ふなばる)
中川上流の三里免字江里の台地付近をいい、弘安の役で上陸した元軍との最後の決戦場になったところ。 - 東浜
船唐津港。元軍が上陸した地点。弘安の役では、元軍の残兵を攻撃した激戦地。 - コウジゴモリ
東浜の東約100mほどの台地。弘安の役で元軍が鷹島に上陸、占領した時に日本軍と激戦を展開したところ。
遠矢の原(とやのはる)
鷹島最北端、現在の鷹島モンゴル村内の平原を指し、蒙古襲来時に敵兵を迎撃したところをいわれています。江戸時代には、御備えと称し武技を練る場所として、弓矢、大筒を備えた守備隊約20名が駐屯していました。
供養の元(くようのもと)
鷹島支所近くの三叉路にある供養塔。ここに元軍の首を吊るしたといわれ、明治維新までは罪人の首切り場だったと伝えられています。
日本山城跡(ひもとやまじょうあと)
日本山は火の元山といわれ、外的の来寇を知らせるためののろしを上げたところではないかといわれています。松浦久公が移り住み、文永・弘安の役では松浦答公が奮戦した地と伝えられています。
番屋山(ばんやさん)
鷹島の南端、伊万里湾に突き出た半島状の小高い丘が番屋山です。約1300年前、新羅が日本に攻めてくることを恐れ、各地に水城と朝鮮式山城が築かれました。番屋山にも礫石(つぶていし)の砦があったと伝えられ、今も山頂には石つぶてが数十mにわたって積み重ねられています。弘安の役では、武将たちがここで防戦につとめたと伝えられています。
伝統行事他
和船競漕(せいぐろ)
5月5日の端午の節句に阿翁浦漁港で行われる和船競漕。江戸時代後期には今の形の「せいぐろ」が行われていました。3隻の和船に7~10名が乗り込み、浮漂の間を一周して速さを競います。
起源ははっきりとしませんが、蒙古襲来の折、元軍船に松浦党が当時の西の浦(現阿翁浦港)から小船で夜討ちをかけたことによる、という説や、若者の櫓さばきの鍛練と豊漁祈願、男子の健やかな成長を祈願するため漁民が始めた、という説があります。
地名
阿翁浦周辺は「鷹島西の浦」といわれ、南部の船唐津、中央部の里付近とならび北部の激戦地でした。
そのことを表すかのように、戦いの凄まじさを思わせる地名が残っています。
- 血浦(現在の周良=しゅうら)
- 首崎(現在の薫崎=くんざき)
- 胴代(現在の堂代=どうしろ)
- 地獄谷(じごくだに)
- 前生死岩(まえしょうじいわ)
- 後生死岩(うしろしょうじいわ)
- 垣瀬(かきぜ→阿翁浦湾外の瀬。元軍の残兵が破船をつくろい逃げようとしたが瀬に阻まれ全滅した)
- 鬼塚(おにづか)