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松浦党梶谷城跡(まつらとうかじやじょうあと)

梶谷城跡

梶谷城跡

源久公の居城である梶谷城は、1069年築城といわれていますが諸説があり確証はありません。中世の山城として県の文化財として指定されています。
今福の城山山頂部を楕円に削って本丸とし北側に二の丸、本丸西側には大手門を配しています。
本丸から大手門にかけての石垣などが現在も残っており、本丸の南隅には物見の跡があります。梶谷城は、平安後期の城郭建築上貴重な資料とされています。
また麓には侍屋敷、長者屋敷と思われる館跡の千人枡やぬうえん(農園)跡があります。
頂上からは海上はもとより、唐津の鏡山、西は大岳、星鹿城山、平戸の白岳、南は伊万里、有田と山寺城や久原城が見渡せ、守るによく、攻めるによく、治政によく、松浦の要の地に城塞を構えたことがわかります。

 

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文禄の役松浦家供養塔(ぶんろくのえきまつらけくようとう)

松浦家供養塔

松浦家供養塔

1592年、豊臣秀吉の朝鮮出兵時に出陣し戦死した定(さだむ)公と七勇士の名が刻まれた供養塔。
小西行長に従い朝鮮に渡り平安道で23歳で戦死しました。県指定文化財。

 

宛陵寺跡(宗家松浦丹後守累代の墓)(えんりょうじあと・そうけまつらたんごのかみるいだいのはか) 

宛陵寺跡

宛陵寺跡

この墓地は、松浦家の始祖、源久公の館跡でした。宛陵寺は、十一代延(のぶる)公が建立したとされ、延公は宛陵寺に屋敷、山林、畑等を寄進しており、その古文書が今も宛陵寺に残っています。
以来、宛陵寺は宗家松浦家の菩提所となっており、累代の供養塔が20余基現存しています。
現在、宛陵寺は地すべりを避け仏坂に移転しています。

 

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今福神社(歳の宮)(いまぶくじんじゃ・としのみや)

今福神社

今福神社

1069年、源久公が松浦志佐郷今福に下向した際、この地の小祠に多賀大社の分霊を勧請し年を越したことから歳の宮といわれています。その折、村人が梶の葉に餅を3つ乗せて久公に捧げたことに由来し、松浦家は梶の葉の家紋を用いるようになったと伝えられています。

 

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今宮神社(いまみやじんじゃ)

源久公を祀る神社で七代正(ただす)公が創建し、二十代信貞公が1668年に再建しました。 

宗家十代丹後守勝公の墓(そうけじゅうだいたんごのかみまさるこうのはか)

丹後守勝公の墓

丹後守勝公の墓

勝公は、今福と有田を領有、朝鮮と交易を行うために梶谷城を修復し、土肥の浦、滑波恵(なべるばえ)、蔵の元に交易船を入れるための港を築くなどしたほか、梶谷城の麓に農園を開墾するなど村人のために貢献しました。勝公1399年没後、その徳を称えて江迎に祠を建て、若宮神社として祀っています。

 

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宗家十三代丹後守盛公の墓(そうけじゅうさんだいたんごのかみさかるこうのはか)

丹後守盛公の墓

丹後守盛公の墓

盛公は、1452年30歳のころに相神浦(あいこうのうら・現佐世保市の相浦)に移り、武辺城を築きました。以来朝鮮との貿易を積極的に行い、その名は朝鮮王朝実録に記されています。墓は相浦の東漸寺にあり、今福の墓碑は、後に二十六代松浦伊勢守忠公が宝篋印塔を建立したもの。

 

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